憩いの情景 -1-

〜ここが彼女のアトリエ〜

今、私はとある都内のカフェにいる。

20分ほど前のこと。
朝一で健康診断を終えて朝食を取るためにここに来た。昨晩から何も食べていない。食事する気満々である。

さてどこに座るか。
広いテーブル席は相席のような形になっていてパソコンで仕事中の人が多い。その横でがっつり食事していいものか少し気になる。
ぐるっと見渡すと少し離れた先に、一角だけ柱に隠れた2席がある。程よく奥まっていて落ち着けそうだ。ただし隣に人が来たらやや窮屈な場所でもある。
とは言えまだ朝で人も少ないし、わざわざこの狭い私の隣に来る人もいないだろう。
「よし決めた!」と座って落ち着くと、ものの3分もしないうちに隣が埋まった。見積もりが甘かった!

隣に来たのは30代くらいの女性。
コーヒーをテーブルの隅に置くと、何やらカバンから道具を取り出した。小さい針山と小さいハサミ。そして作りかけの刺繍だ。「針仕事って家以外でもできるものなのね!」と思わず感心する。私には針山を持ち歩くという発想が無かった。
この区画といい、その人の猫背具合といい、すごく小さくまとまって作業が始まった。黙々と針を進めている。きっとすごく刺繍が好きなのだろう。

私も編み物をするからわかる。
手芸は家でゆっくり楽しむのもいいけど、日常から離れた空間で楽しみたいときもある。でもなぜだろう、パソコン作業のようには堂々と広げられないのだ。過去に編み物ができる場所を探そうとネットで検索をした際に、検索候補に『カフェ 手芸 迷惑』と出てきたのを見て以来、「カフェでは手芸をするまい」とそっと蓋をしてしまったのだ。
確かに針やらハサミやら危ない道具もある。こんなところで作業するなと言われれば、ごもっともですとしか言えない。飲食している人の横で布・糸・毛糸といった繊維物を扱うこと自体がNGなのかもしれない。

でもどうだろう。今私の横で作業をしている彼女はとてもきちんとしているのだ。全部肩幅の内側で作業範囲が収まっていて所作が美しい。配慮を感じるのだ。
もし彼女がテーブルいっぱいに道具を広げたり、腕を思いきり伸ばすように針を進めていたら私もそっと席を離れるだろう。誰かが注意に来るか、こっそり写真を撮られて「迷惑客発見!」とネットで晒されるなんてことも想像できる。

ただ、彼女がこの時間この空間に来ているのは周りに気遣ってか、もしかしたら家では作業ができない事情があるからなのかもしれない。そうではなかったとしても、今この瞬間が彼女にとって貴重な時間なのには変わらないだろう。そう思ったら、せめて私が隣を埋めている間は思う存分刺繍を楽しんで欲しいと思った。


食事はもう終わってしまったけど、コーヒーをゆっくりゆっくり飲む。もう少しだけここにいたい。
どうかこの一角が誰にも邪魔されないように。

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