憩いの情景 -2-


  ~ 銀杏の枝で ~

 それはもうかれこれ、七、八年前のことだったと思う。
 私の居間は庭に面して天井までのガラス張りになっており、その窓の側にあった3メートルほどの華奢な木が突然枯れてしまった。不思議な木だった。それより十年前、母が亡くなった夜は一月で粉雪が舞っていたにもかかわらず、それまで一度も花を咲かせなかったその木が一晩で満開になったのだった。いつの間に咲いたのか。翌朝曇り空の下で、ピンクがかった小さな白い花で覆われた枝々は、奇妙に明るく輝いていた。
 それ以降は時折少し花が咲くことがあっても、季節はいつもまちまちの狂い咲きで、植物図鑑などでも探してみたがついに何の木かも判らず仕舞いだった。そんな母にまつわる思い出のある木だったので、枯れた時は悲しいだけではなく本当に不安になり、不吉な予兆ではないかとまで思い意気消沈していた。
 そこで私を励まそうと隣人たちが、枯れた木の代わりに銀杏の苗木をプレゼントしてくれたのだった。初めて見た時、私の胸ぐらいまでしかなかった苗木の大振りな葉は濃い緑で、若々しいエネルギーに溢れて頼もしい印象を受けたのを覚えている。皆で適当に穴を掘って植えて、その後は適当に水をやっていたら、この銀杏はすくすくと育ち、二年ぐらいで二階に届くくらいになった。
 あまりに勢いがいいので、一度は上から一メートルくらい庭師さんに切ってもらったのに、更に伸びてとうとう三階建ての建物の屋根を越し、広いとは言い難いこの庭には不釣合いな大きさになってしまった。まさかこんなに大きくなるとは思ってもいなかった。
「これ以上大きくなったらどうしましょう?」
九月頃、季節の手入れに来てくれた庭師さんに尋ねた。
「うーん、この様子じゃ、切ってもまたすぐに伸びますよ。放っておくしかないかも。それにしても変わった葉っぱですねえ。銀杏の中でも珍しい種類だ」
と、この苗木を売った張本人である庭師さんは、深緑の葉っぱを手に取って興味深気にしげしげと眺めている。まあ、そういうことなら、今年は取り敢えず切らずにおいておくことにした。
 
その頃から、黒ツグミのつがいが頻繁に庭に降りてくるようになった。ここでは毎年春から秋まで、黒ツグミが裏の建物の頂きの同じ鉄柵に止まって朝夕美しい声で鳴くが、それが雄鳥の求愛の歌なのかカップルの会話なのかは分からない。ただ今年は初夏から雛鳥が高く飛べずに、危なっかしい様子で庭の石壁にしがみつくのを何度か見たし、夕方には茶色い雌鳥が低い灌木の茂みに潜んでいたり、忙しそうに庭を横切ったりするのに何度も出会したりもしたので、黒ツグミの子供が生まれたのは分かっていた。これまでも、シジュウカラや山鳩が巣をくって雛がかえったことは何度もあり、鳥たちの存在は都会の小さな庭にも彩りを添えているのである。
 ある日の夕方、日が落ちかけていた。何気なく庭を見ると、銀杏の木の葉の色がほんの少し淡くなってきているのに気がついた。静かに秋が深まってきているのが感じられる。
 とその時、まだ如何にも幼い雛鳥が銀杏の木の一本の枝に止まった。色はほぼ黒に近いが、体長は短く丸々としている。背景の夕暮れに銀杏の葉の色が馴染んで、黒ツグミの子の輪郭がくっきり浮き上がって見え、まさしく一幅の墨絵を見るような美しさだった。雛鳥は忙しなく首を傾げたり辺りを見回してはいるが、飛び立つ気配はない。
 
しばらく見惚れていると、親鳥がやって来て同じ枝に止まった。茶色い羽と嘴から察するに、たぶん母鳥であろう。雛鳥は嘴を開けて構え、母鳥はそこに直接自分の嘴を差し入れる。ツグミ親子の夕餉が始まったのだった。それから、母鳥は素早く飛び去り二、三分もしない間に戻ってきて、また口移しで餌を与える。雛鳥は母鳥が餌を取ってくる間、身体を震わせながらも同じ枝で待っている。という作業を数回繰り返すうちに日は暮れていき、ツグミの親子も何処かに飛び去っていった。
 
鳥たちが庭に来るのは珍しいことではないが、この光景は私の心に響いた。何故それほどまで響いたのかは分からない。古い物語と新しい物語が交錯して、そして黒ツグミの親子と私の心情がたまたま共鳴したのなら、それ以上追求する必要もないのだろう。
 
今は黄葉した葉もすっかり落ちて裸木になっている銀杏を眺めながら、春に新しい芽が吹き始めるのを、早くも心待ちにしている。

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